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高松地方裁判所 昭和61年(ワ)219号 判決 1990年8月08日

原告

坪井豊幸

被告

藤原博

ほか一名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告らは、原告に対し、連帯して金二七〇〇万円及びこれに対する昭和五七年一二月一六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

一  原告は、次の交通事故に遭遇した。

(第一事故・別紙第一図)

昭和五七年六月四日午前一〇時二三分ころ高松市高松町二三六五番旧国道一一号線路上において、原告が原動機付自転車(以下「原告原付」という)を運転して道路の中央から左側部分の左端を直進中、道路の中央から右側部分を対向して直進してきた被告植田利幸運転の普通乗用自動車(香五五る四九七五・以下「植田車両」という)が道路外の部分に出るため右折して左側部分を横断しようとしたため、同所を直進してきた原告車両と衝突した。

(第二事故・別紙第二図)

昭和五七年一二月一五日、午後七時〇五分ころ、高松市木太町二七〇七―七の交差点において、原告が幅員の明らかに広い道路を普通貨物自動車(以下「原告車両」という)を運転して直進中、これと交差する幅員の明らかに狭い道路を直進して交差点に進入してきた被告藤原博運転の普通乗用自動車(香三三さ二三八〇・以下「藤原車両」という)と出会い頭に衝突した。

二  原告は、右事故で受けた障害の治療のために、次のように入・通院による治療を受けた。

* 昭和五七年六月四日<第一事故発生>

1  六月四日 松田医院(通院一日)

2  六月五日~七月九日 屋島整形外科医院(入院三五日)

3  七月一五日~七月二一日 百石病院(入院三日、通院二日)

4  七月一二日~一一月二五日 屋島総合病院(通院八〇日)

5  一二月八日~一二月九日 樫村病院(通院二日)

* 一二月一五日<第二事故発生>

6  一二月一七日~昭和五八年六月一〇日 伊達病院(入院一七六日)

7  昭和五八年六月三日~昭和五九年三月三一日 高松市民病院(入院九七日、通院八二日)

三  本件訴えは、本件各事故がいずれも被告らの安全確認、一時停止等の自動車運転手としての基本的な注意義務違反により生じたものであり、被告らの行為はいずれも民法七〇九条の不法行為に当たるとして、原告が被告らに対し、右各事故によつて受けた傷害等による損害のうち二七〇〇万円を連帯して支払うことを求めるものである。

四  争点(被告の主張)

1  本件事故の態様(過失相殺)

(一) 第一事故については、原告にも前方注視義務違反の過失があり、損害の六割を過失相殺すべきである。

(二) 第二事故については、原告に徐行義務違反の過失があり、損害の二割を過失相殺すべきである。

2  原告の傷害の程度、本件各事故との因果関係

3  損害額

被告らは、本件事故に関し、次のとおりの金員を支払済みであり、原告には、これを超える損害はない。

(一) 被告植田は、第一事故に関し、一七二万七六二五円を支払済み。

(二) 被告藤原は、第二事故に関し、六七四万六八三〇円を支払済み。

第三争点に対する判断

一  事故状況及び責任原因(争点1)

1  (第一事故について)

証拠(甲二、甲三の三、四、原告及び被告植田本人)によれば、第一事故の状況は、次のとおりと認められる。

(一) 昭和五七年六月四日午前一〇時二三分ころ、高松市高松町二三六五番付近の東西に走る旧国道一一号線路上において、原告は、原告原付を運転し東から西に向かつて直進してきた。被告植田は、植田車両を運転して、右道路を西から東に向かつて原告と反対車線を対向して直進してきた。

そのころ、道路の原告側車線は、交通が渋滞し、多数の乗用車が停止しており、原告原付は、その最左端を進行していた。

(二) 被告植田は、本件事故現場直前の道路中央付近で、同人の進行方向右側の道路外にある海部医院に入るため右折して道路を横断しようとして停車し、反対車線の渋滞に隙間ができるのを待つていた。そのとき、植田車両の後方に来たバスがクラクシヨンを鳴らし、植田車両に対し、進路を開けるように要求した。すると、これを見た反対車線の乗用車が少し前方に出て、植田車両が右折できるように車間を開けてくれた。そこで、被告植田は、直ちに発進し、反対車線を横断しようとしたところ、折から、同所を直進してきた原告車両が植田車両の左側後部ドア付近に衝突した。

(三) 原告は、道路左端を時速約二〇キロメートルで直進していたが、前方の信号機が青を表示したので、すこしスピードを上げ時速三〇キロメートル程度にして進行したところ、渋滞車両の間から植田車両が現われ、原告の進路を遮つたため、そのまま原告原付の前部タイヤが植田車両の後部ドア付近に衝突した。

(四) 右事故の際、被告植田から原告原付は見通しができず、また、原告からも植田車両は十分確認できなかつた。

被告植田は、原告原付が衝突してはじめてその存在に気づき、直ちに植田車両を停止させたところ、原告が原告原付にまたがつた状態で横倒しになつていた。そこで、これを起こして、救急車を呼び原告を松田医院に運んだ。

以上の事実が認められる。

右に認定できる事実関係によると、右のような状況においては、被告植田は、自己の進行方向の見通しが悪く、渋滞車両の左側の確認はほとんど困難であつたのであるから、このような場合に、道路外に出るために右折するには、十分な徐行をして安全確認をしながら徐々に進行し、直進車の交通を妨害しないようにすべき運転者としての義務があるのに、これを怠つて停止中の乗用車の間を一気に右折しようとしたため本件事故を生じさせたものというべきであつて、被告植田には本件事故発生について過失があるものと認められる。

また、被告植田は原告にも過失があると主張するところ、右事実関係からすると、原告においても、前方渋滞車両の動静に十分注意を払つていれば、車両間隔が開いた部分のあることも認識でき、本件のような事態に備えた徐行措置等がとりえたものと認められるから、本件事故の発生については、原告にも一部過失があつたものと認められる。

そして、前記認定の事故状況からすると、両者の過失割合は、被告植田七対原告三と見るのが相当である。

2  (第二事故について)

証拠(甲一の一~三、甲二、甲四の三八、三九、原告及び被告藤原本人)によれば、第二事故の状況は、次のとおりと認められる。

(一) 昭和五七年一二月一五日、午後七時〇五分ころ、高松市木太町二七〇七―七の東西及び南北に走る道路の交差点において、原告は、幅員の明らかに広い道路を西から東へ原告車両を運転して交差点に向かつて直進していた。被告藤原は、これと交差する道路を藤原車両を運転して南から北へ直進して交差点に向かつていた。

(二) 被告藤原が進行してきた道路は、幅員が明らかに狭く、かつ交差点直前において一時停止の標識があつたが、被告藤原は、これに気づかず、時速四〇ないし五〇キロメートルで交差点に進入した。

(三) 原告は、交差点手前から藤原車両のライトでその車両の進行してくることを知り、減速措置をとつた上、自らが優先であることを知らせるためにクラクシヨンを鳴らし、藤原車両が停止すると信じて交差点に進入したところ、一時停止を怠つて交差点に進入して来た藤原車両と出会い頭に衝突し、本件事故が生じた。

(四) 本件事故により、藤原車両は左前バンパー付近が、原告車両は右前部フエンダー付近が凹損した。事故直後には、原告から身体の異常の訴えはなかつた。

以上の事実が認められる。

右に認定できる事実関係によると、右のような状況においては、被告藤原は、交差点に進入するについては、標識を守り、一時停止して安全確認をした上で進入すべき運転者としての義務があるのに、これを怠つて交差点に進入したのであるから、本件事故を生じさせるについて過失があつたものと認めることができる。

また、被告藤原は原告にも過失があると主張するところ、右事実関係からすると、原告は、交差点進入前から藤原車両の動向に気づいていたのであるから、自らが優先関係にあるとしても、なお藤原車両の動静に注意し、十分な徐行等の衝突回避の措置をとりえたものと認められるから、本件事故の発生については、一部原告にも過失があつたものというべきである。

そして、前記認定の事故状況からすると、両者の過失割合は、被告藤原九対原告一と見るのが相当である。

3  以上によれば、本件第一事故には、被告植田の過失が、第二事故には被告藤原の過失がそれぞれ原因となつていることが認められるから、被告らはそれぞれ民法七〇九条により、各事故について原告に生じた損害の過失割合相当部分について賠償すべき義務があるというべきである。

なお、原告は、被告らの賠償責任が連帯する旨主張するが、被告らには、何ら責任を連帯すべき事情は認められないから、各人の責任の範囲内で賠償義務を負うべきものであり、損害は各事故ごとに判断すべきである。

二  治療の経緯(争点2)

本件各事故後の原告の入、通院状況は、次のとおり認められる。

1  原告は、昭和五七年六月四日、第一事故直後に救急車で松田医院に運ばれた。松田医師は、原告の下肢に打撲傷と内出血、左手に擦過傷を認めた。また、原告から腰も痛いとの訴えがあつたので、膝と右足関節のほか腰部もレントゲン撮影をしたが、いずれも骨折は認められなかつた。原告から首の痛みの訴えはなかつた。

松田医師は、診断の結果、右下肢の挫創、右足関節の捻挫、腰部打撲と診断した。原告は、治療を受けた後、松田医院から現場に戻り、自己の原告原付に乗つて帰つた。(乙一~一一、証人松田、原告及び被告植田本人)

2  翌六月五日午後三時頃、原告は吐き気を訴えて退社し、屋島整形外科医院に行き、同日から七月九日まで、三五日間入院した。

原告は、竹内医師に首、肩の痛みと右足間接の痛みを訴えたので、首のレントゲン撮影がされた。その結果、頚椎の五番、六番の間の軟骨部分の狭小化と後部に突棘を出すような軟骨部分の変性(骨棘形成)が見られた(乙二の一二)。また、頚椎の運動制限と根刺激症状を認めたほか、腰椎の軽度の不等整・足首の腫れを認めた。

竹内医師は、このレントゲンの骨棘形成が前日の第一事故で生じたものとは考えにくく、事故をきつかけに症状がでたことは考えられるが、判定はできないとし、また、レントゲン写真の程度では愁訴と必然的な結びつきはないから、治療としても、安静と消炎鎮痛を目的とした薬物投与が相当と考えた。そこで、原告に対しても、二、三週間の安静とその後の運動療法という通常の治療方法をとることとし、しばらく安静にさせたうえ、除々に頚椎牽引、ホツトパツク等の手当を加えていつた。(乙二の一~一九、証人竹内)

3  原告は、七月九日に屋島整形外科医院を退院し、同月一二日、屋島総合病院を訪れ、屋島整形外科医院に入院していたがよくならないとして、首の痛みと右手のしびれを訴えた。屋島総合病院の医師は、変形性脊髄症、頚椎捻挫と診断したが、通院治療を指示し、原告は、同日から三日間通院し、頚椎の牽引、ホツトパツク等の治療を受けた。

ところが、同月一五日及び一七日には、原告は、百石病院を訪れて診察を求め、同病院で頚部捻挫の診断を受け、頚椎牽引、ホツトパツク、マツサージ等の治療を受けた。そして、原告は個室部屋への入院を希望し、同月一九日から二一日までの三日間入院して、頚椎牽引や低周波の治療を受けた。

しかし、長女が怪我で屋島総合病院に入院し、付き添う必要が生じたとして同月二一日百石病院を退院し、同月二二日から、再度屋島総合病院に通院し、一一月二五日まで頚椎牽引、ホツトパツク、マツサージ等の治療を受けた。(乙三の一~一六、乙四の一~一二、原告本人)

4  一二月八日、九日の両日、原告は、両手の手背のしびれ感と頭痛を訴えて樫村医院を訪れた。そこで、樫村医師は、頚椎のレントゲン撮影をすると、頚椎の五番目と六番目の間が狭くなつており、骨棘形成も見られた(乙五の四)。樫村医師は、これらが手のしびれ等の愁訴の原因になつていると考えた。原告はこれが交通事故による症状であると説明していたが、頚椎の狭小化は外圧によつて突然できる可能性もあるものの、骨棘形成自体は事故によつて突然できたものではないと考えられ、同医師には、交通事故によるものかは判断できなかつた。同医師は、レントゲンの所見から頚部挫傷、第五頚椎横断不全麻痺との診断をしたが、このような症状の痛みは精神的なものが大きいと考えた。なお原告は、樫村医院には、この二日間来院したのみであつた。(甲三の一六、乙五の一~四、証人樫村)

5  原告は、同年一二月一五日、第二事故に遭遇し、同月一七日、前頭部を打つて痛みがある、吐き気と首の運動制限がある等と訴えて伊達病院を訪れ、以後昭和五八年六月一〇日までの一七六日間入院した。

伊達病院で頭と首のレントゲンを撮つたところ、頚椎の五番と六番の間が非常に狭くなつていることがわかつた(乙六の六三)。なお、この状態は第一事故後に他の病院で撮影したものとほとんど変わらないものであつた。

伊達医師は、頭部打撲傷、頚部捻挫等の診断をしたが、治療としては、安静を保ち、沈痛剤の投与をするとともに、頚部の牽引、電気治療、湿布等を継続して行うものであつた。(乙六の一~七二、証人伊達)

昭和五八年五月末ころ、所見は変わらないのに、原告の訴えの内容が強くなつてきたので、伊達医師は、香川県立中央病院を紹介し、原告が中央病院の診断を受けたところ、中央病院から伊達医師に、保存的治療には限界がある旨の回答があつた(乙八の一~六、乙六の三二)。

6  原告は、伊達医師から手術の必要性を伝えられたので、同年六月三日に高松市民病院を訪れ、診断を求め、同月一〇日、伊達病院の退院と同時に市民病院に入院した。

高松市民病院でレントゲン撮影をしたところ、頚椎の五番、六番に狭小化を認めたが、他に客観的、明白な他覚所見は見られなかつた。しかし、原告からの説明を聞いて医師は交通事故が原因と考えた。

なお、撮影したレントゲン写真(乙九の四二)は、第一事故後に他の病院で撮影したものとほとんど変わつていなかつた。

市民病院の右入院は、クラツチフイールド牽引を目的とし、七月二二日には、原告はその装置を着装するための手術をした。その後、牽引治療をし、八月二四日、これを外して同月三一日に退院し、以後通院治療となつた。

その後、昭和五九年二月一日に検査目的で再度入院し、検査の結果、神経が第五、六頚椎の間の位置で前から圧迫されるようになつているとの診断を得て、原告も希望したので手術の方針となり、二月一三日に手術が予定されたが原告が直前になつて拒否し、担当医師との信頼関係を失い、手術をせずに翌一四日に退院した。

以後、通院の治療をしていたが、昭和六〇年八月から担当となつた長田医師が同年八月二一日に香川医科大学に原告の症状についての紹介状(乙七の一二八)を送つたところ、手術の時期でない旨の意見が記された回答書(乙七の一二九)が寄せられた。

高松市民病院の診断は、頚髄根症あるいは頚髄症の疑い等といつたものであつたが、治療としては、ほぼ継続して頚椎牽引、低周波、ホツトパツク等の手当がされていた。(乙七の一~一八七、乙九の一~四二、証人三好、同長田)

三  以上に認定した状況をみると、原告は、首の痛み及び手足のしびれを訴え、その原告の愁訴の原因と見られるものは、レントゲン写真に見られる頚椎間の狭小化、骨棘形成の部分であつて、右部分の神経が前方から圧迫されていると診断されている。治療の経緯を見ると、各病院の治療も右部分に集中しているが、原告の症状及びこれに対する治療は、全体を通じて、第一事故後の屋島整形外科での診断、治療とほとんど異なることがなく、また、治療の多くは、原告に対して特段の効果があつたものと認めることができない。

ところで、被告は、本件各事故と原告の傷害との因果関係を問題にするが、前掲証拠によれば、このような頚椎間の狭小化、骨棘形成は老化現象としてもよく見られるものであり、原告のこのような状態は第一事故以前からあつた可能性が高く、また、その状態は、第二事故後もほとんど変化がないものと認められる。そうすると、本件各事故と原告の愁訴との間の因果関係に疑問がなくはない。

しかしながら、右骨棘形成等と痛みとは必然的な関係にあるものではなく、事故前に現在のような痛みがあつたことを認めるに足りる証拠はないし、右のような症状を有する者が交通事故に遭遇した場合に、より大きな痛みを生じるに至ることは優に推認することができる。また、他にこれを否定すべき特段の事情も認められない。

もつとも、本件においては、原告の愁訴のほかには、原告に生じている傷害が本件事故とどの程度の関係があるかを客観的に明らかにする証拠もなく、また、前掲証人らの証言によれば、この種の愁訴は、精神的な影響も大きいと認められるところ、原告本人は、前記認定のような転医について、それぞれに医師の言動に不審感を持つたとか同僚の評判が悪いなどの理由を述べており、本件の愁訴に関しても、精神的要因が相当強いことが窺われること等も考慮すると、各事故の態様に応じた通常の相当期間の治療の範囲で本件各事故との因果関係を肯定するのが相当である。

そして、前記認定の事故状況、治療の経緯、通常の治療期間等からすると、当該各事故のための治療として必要な範囲は、第一事故については、松田医院及び屋島整形外科医院までの治療(昭和五七年六月四日から七月九日)について、第二事故については、事故後約四か月に当たる伊達病院での治療期間中の一二〇日分の治療について、それぞれ事故との因果関係を認めることとする。

四  次に、原告は、後遺傷害の存在を主張し、市民病院の診断書(甲四の七)には、交通事故との因果関係を肯定する記載があることが認められるが、右記載の資料となつた医師三好の証言に照らしても、同医師において交通事故との因果関係を肯定するに足りる根拠があつたとは認められないから、右記載をもつてただちに原告の後遺傷害を認めることはできない。

もつとも、頚椎間の狭小化、骨棘形成等の症状自体を本件各事故から生じたものと認めることができないのは前記のとおりであるが、本件各事故の態様等から判断すると、そのような状態にある原告が本件各事故に遭遇したことによつて、痛みが増幅し、継続していること合理的に推認することも可能である。したがつて、症状固定時期は明確でないものの、前記認定の治療経緯からすれば、遅くとも第二事故の相当治療期間経過時に固定したものと認め、後遺傷害を肯定することもできる。しかしながら、その程度は、原告の主張するような高度のものと認めることはできず、前記認定の諸事情から判断すると、原告において継続する痛みが本件各事故と因果関係のある後遺傷害は、せいぜい自賠法施行令二条の後遺傷害別等級表の一四級程度に留まるものと認めるのが相当である。

五  以上の認定判断に基づき、原告の損害額(争点3)を検討する。

1  第一事故について

(一) 治療費 六一万六九六〇円

松田医院での治療費は、二万二〇二〇円である(甲三の六)

屋島整形外科医院の治療費は、五九万四九四〇円である(甲三の七)。

(二) 入院雑費 三万五〇〇〇円

屋島整形外科医院の入院期間三五日について一日一〇〇〇円を認める。

(三) 休業損害 三四万〇一二三円

原告の昭和五七年の年収は、三五四万七〇〇〇円であるところ(甲四の五八)、これにより右三五日分を計算すると右金額となる。

3,547,000÷365×35=340,123

(四) 傷害慰謝料 三五万円

本件事故による傷害の慰謝料は、右金額をもつて相当と認める。

以上の(一)ないし(四)の合計は、一三四万二〇八三円となる。

2  第二事故について

(一) 治療費 一七六万五一一一円

伊達病院の治療費は、二五八万八八三〇円であるところ(甲四の三二~三五)、右一七六日間の入院期間のうち、一二〇日の限度で第二事故の治療に必要な期間と認めるから、これを按分計算すると右金額となる。

2,588,830÷176×120=1,765,111

(二) 入院雑費 一二万円

伊達病院の相当入院期間一二〇日について一日一〇〇〇円を認める。

(三) 休業損害 一一六万六一三六円

前記の原告の年収で一二〇日分の損害を計算すると右金額となる。

3547000÷365×120=1166136

(四) 傷害慰謝料 一二〇万円

本件事故による傷害の慰謝料は、右金額をもつて相当と認める。

以上の(一)ないし(四)の合計は、四二五万一二四七円となる。

3  後遺傷害

前記の認定のとおりの後遺傷害を認めると、これによる原告の逸失利益及び慰謝料は、次のとおりとなる。

(一) 逸失利益 二四一万四七九七円

前記のとおりの原告の年収を基礎に、一四級の労働能力喪失率(五パーセント)、当時の原告の年齢に適合する新ホフマン係数(一三・六一六)により算出すると右金額となる。

3547000÷0.05×13.615=2414797

(二) 後遺傷害慰謝料 七〇万円

右の後遺傷害の慰謝料としては、右金額が相当である。

以上の(一)、(二)の合計は、三一一万四七九七円となる。

ところで、右の後遺傷害に対しては、第一、第二事故のいずれもその原因の一端を与えているものと認めるのが相当であるが、右の損害は、その発生に対する各事故の寄与度によつてこれを配分するのが公平である。そこで、前記認定の事故態様に照らすと、第一事故が二割(六二万二九五九円)、第二事故が八割(二四九万一八三八円)の割合で右損害を負担するのが相当である。

右の後遺傷害に関する損害額を各事故の前記損害に加算すると、第一事故から生じた損害の合計は、一九六万五〇四二円となり、第二事故によつて生じた損害の合計は、六七四万三〇八五円となる。

4  過失相殺

被告は、過失相殺を主張するところ、各事故態様に照らし、前記判断のとおり、第一事故については三〇パーセント、第二事故については、一〇パーセントの割合で過失相殺を認めるのが相当である。

そうすると、結局、第一事故について、被告植田が負担すべき損害額は、一三七万五五二九円となる。

1965042×(1-0.3)=1375529

また、第二事故について、被告藤原が負担すべき損害額は、六〇六万八七七六円となる。

6743085×(1-0.1)=6068776

5  弁済充当

ところで、原告は、被告植田から、第一事故に関し、治療費九一万八六二五円(甲四の七七及び八九~九二、乙一三)及び八〇万九〇〇〇円(争いない)の支払いを受けており、また、被告藤原から、第二事故に関し、治療費二五八万八八三〇円(乙一四)及び五三五万円(争いない)の支払いを受けている。

そこで、これを右請求しうる損害に充当すると、原告は、いずれの被告に対しても支払いを求めるべき損害金は残つていないものというべきである。

六  以上によれば、原告の本件請求は、その余について判断するまでもなく、いずれも理由がない。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 石井忠雄)

(別紙) 第一図

<省略>

第二図

<省略>

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